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クリスマスエクスプレス
クリスマスエクスプレス
http://www.youtube.com/watch?v=ZGu7SGxNWyo
1988年〜1992年にJR東海がテレビコマーシャルで放映していた。
もともとのベースは、JR東海発足後すぐに放映された「シンデレラエクスプレス」
当時は、まだ「のぞみ」がなく確か、東京21:00の新大阪行きひかりが最終だった。
この最終のひかりで東京でのひと時の大切な時間を楽しんだ恋人同士が帰っていく。
そんなシーンを描いたもので、それのクリスマス版といったものがクリスマスエクスプレス。
当時は、N700系なんてなく100系のグランドひかりが主流の時代。
最後の映像は、100系の美しいテールライトであった。いまは100系も広島あたりまで行かないと見られないが、16両編成で4両の二階建てグリーン車のついたグランドひかりは美しかった。
それは、それとしてクリスマスエクスプレスもシンデレラエクスプレスも東京が舞台になる。
最近は、JR東日本が東北新幹線新青森開業で新青森キャンペーンをしている。そのコマーシャルの最新のものが旅立ち編。彼女が新幹線で東京の大学に行くというシーンである。舞台は青森。最初に映るのは、五能線のローカル列車、そして新青森駅のシーンといった感じである。
http://www.jreast.co.jp/myfirstaomori/cm/doramacm/index.html
この二つを見ていて思うこと。
地域のアイデンティティーを大切にするJR東日本と全ては東京中心に考えているJR東海の発想の違いである。
JR東海の本社は名古屋である。なぜ、クリスマスエクスプレスは名古屋が舞台にならないのか。大阪でもよいのではないか。
東海道新幹線と東北新幹線では、そもそもの位置付けなどが違うことは事実である。イメージも違う。
しかし、鉄道という社会インフラを支える企業としては、自分達の営業エリアの地域のアイデンティティーを大切にして欲しいと思う。
事実、東海の社員と話をしていると東海道新幹線のことしか知らない社員に数多く出合う。
JR東海の営業エリアには、東海道本線(熱海〜米原)、中央本線(名古屋〜塩尻)、高山本線(岐阜〜猪谷)などたくさんの新幹線以外の路線があるが、本当に鉄道の知識が乏しい社員が目立つ。
シンデレラエクスプレスやクリスマスエクスプレスはJR東海のイメージ戦略の成功につながり、大学生の就職ランキング上位に押し上げる効果をもたらしたと言われている。
しかし、鉄道や地域など関係なく「イメージで会社を選択した社員を増やした」ともいえるのではないだろうか。
ちなみに、昨夜は名古屋行き最終のひかり(東京22時発)で帰宅したが、クリスマスエクスプレスは空いていた。
金曜日だから帰らなくてよいというのもあるだろうが、クリスマスエクスプレスが放映されたバブル景気の時代と様変わりしたということを象徴していたのかもしれない。
http://www.youtube.com/watch?v=ZGu7SGxNWyo
1988年〜1992年にJR東海がテレビコマーシャルで放映していた。
もともとのベースは、JR東海発足後すぐに放映された「シンデレラエクスプレス」
当時は、まだ「のぞみ」がなく確か、東京21:00の新大阪行きひかりが最終だった。
この最終のひかりで東京でのひと時の大切な時間を楽しんだ恋人同士が帰っていく。
そんなシーンを描いたもので、それのクリスマス版といったものがクリスマスエクスプレス。
当時は、N700系なんてなく100系のグランドひかりが主流の時代。
最後の映像は、100系の美しいテールライトであった。いまは100系も広島あたりまで行かないと見られないが、16両編成で4両の二階建てグリーン車のついたグランドひかりは美しかった。
それは、それとしてクリスマスエクスプレスもシンデレラエクスプレスも東京が舞台になる。
最近は、JR東日本が東北新幹線新青森開業で新青森キャンペーンをしている。そのコマーシャルの最新のものが旅立ち編。彼女が新幹線で東京の大学に行くというシーンである。舞台は青森。最初に映るのは、五能線のローカル列車、そして新青森駅のシーンといった感じである。
http://www.jreast.co.jp/myfirstaomori/cm/doramacm/index.html
この二つを見ていて思うこと。
地域のアイデンティティーを大切にするJR東日本と全ては東京中心に考えているJR東海の発想の違いである。
JR東海の本社は名古屋である。なぜ、クリスマスエクスプレスは名古屋が舞台にならないのか。大阪でもよいのではないか。
東海道新幹線と東北新幹線では、そもそもの位置付けなどが違うことは事実である。イメージも違う。
しかし、鉄道という社会インフラを支える企業としては、自分達の営業エリアの地域のアイデンティティーを大切にして欲しいと思う。
事実、東海の社員と話をしていると東海道新幹線のことしか知らない社員に数多く出合う。
JR東海の営業エリアには、東海道本線(熱海〜米原)、中央本線(名古屋〜塩尻)、高山本線(岐阜〜猪谷)などたくさんの新幹線以外の路線があるが、本当に鉄道の知識が乏しい社員が目立つ。
シンデレラエクスプレスやクリスマスエクスプレスはJR東海のイメージ戦略の成功につながり、大学生の就職ランキング上位に押し上げる効果をもたらしたと言われている。
しかし、鉄道や地域など関係なく「イメージで会社を選択した社員を増やした」ともいえるのではないだろうか。
ちなみに、昨夜は名古屋行き最終のひかり(東京22時発)で帰宅したが、クリスマスエクスプレスは空いていた。
金曜日だから帰らなくてよいというのもあるだろうが、クリスマスエクスプレスが放映されたバブル景気の時代と様変わりしたということを象徴していたのかもしれない。
わかりやすく伝える
昨日は、クリスマスイブ
別にクリスチャンというわけではないが、長らくおつきあいのあるガラルダ神父さまの降誕祭のミサが20:30から聖イグナチオ教会であったので、行ってきた。
ガラルダ神父さまというか、ガラルダ先生はぼくが上智大学1年の時の人間学の先生。スペイン人でカトリックイエズス会の宣教師である。27歳で来日され、来年は80歳。
上智大学といっても、ぼくは理工学部化学科だったので、周りの友人は人間学なんて興味ないという人もけっこういた。
でも、ぼくは実は専門の授業以上に人間学の授業が好きで癒しの時間だった。
そう、いまユニバーサルデザインや高齢者福祉、障害者福祉などのテーマを扱うきっかけになったのも、
よくよく考えてみるとガラルダ先生の授業の夏休みの宿題(今でいう「社会的排除」の人たちへのフィールドワーク)だった。
大学卒業後、しばらくは記憶の中にはあったがご無沙汰していたが、だんだん疲れてきてふと母校のコミュニティーカレッジでガラルダ先生の授業があることを知り、久しぶりに先生の話を聞きに行きたくなって、10年くらい前からご縁が復活、それ以来毎年2回の懇親会には皆勤している。
そんなガラルダ先生のミサに昨日行って気づいたことがある。
「あっ、この先生の話はご自分の言葉で話されていて、たいへんわかりやすい」ということである。
立教大学にもチャプレンがいて、たまにお話をうかがう機会があるが、圧倒的にガラルダ先生の話はわかりやすい。なぜだろうかと考えると、キリスト教の教えを日常の生活シーンに置き換えて「私たちが理解しやすいようにご自分の言葉で」伝えてくださる。
先月、秋田でぼくが講演をしてそのあとの懇親会で秋田のおいしいお酒を飲みながら言われてすごくうれしかったこと。
「この人(ぼく)は、難しい言葉を使わずに自分の言葉で話しているから気に行ったし、話に説得力がある」
というお言葉をいただいた。
昨日の降誕祭のミサの帰り道にふと思った。あっ自分のわかりやすく伝える技術の原点は、ガラルダ先生の影響かもしれないと。
冒頭に記したように別にクリスチャンではないが、宣教師というより多くの人に布教活動をすることを使命としている人たち(こんな表現すると神父さまに失礼であるが、ごめんなさい)の話し方、伝え方に学ぶべきことって以外とあると感じた、クリスマスイブだった。
別にクリスチャンというわけではないが、長らくおつきあいのあるガラルダ神父さまの降誕祭のミサが20:30から聖イグナチオ教会であったので、行ってきた。
ガラルダ神父さまというか、ガラルダ先生はぼくが上智大学1年の時の人間学の先生。スペイン人でカトリックイエズス会の宣教師である。27歳で来日され、来年は80歳。
上智大学といっても、ぼくは理工学部化学科だったので、周りの友人は人間学なんて興味ないという人もけっこういた。
でも、ぼくは実は専門の授業以上に人間学の授業が好きで癒しの時間だった。
そう、いまユニバーサルデザインや高齢者福祉、障害者福祉などのテーマを扱うきっかけになったのも、
よくよく考えてみるとガラルダ先生の授業の夏休みの宿題(今でいう「社会的排除」の人たちへのフィールドワーク)だった。
大学卒業後、しばらくは記憶の中にはあったがご無沙汰していたが、だんだん疲れてきてふと母校のコミュニティーカレッジでガラルダ先生の授業があることを知り、久しぶりに先生の話を聞きに行きたくなって、10年くらい前からご縁が復活、それ以来毎年2回の懇親会には皆勤している。
そんなガラルダ先生のミサに昨日行って気づいたことがある。
「あっ、この先生の話はご自分の言葉で話されていて、たいへんわかりやすい」ということである。
立教大学にもチャプレンがいて、たまにお話をうかがう機会があるが、圧倒的にガラルダ先生の話はわかりやすい。なぜだろうかと考えると、キリスト教の教えを日常の生活シーンに置き換えて「私たちが理解しやすいようにご自分の言葉で」伝えてくださる。
先月、秋田でぼくが講演をしてそのあとの懇親会で秋田のおいしいお酒を飲みながら言われてすごくうれしかったこと。
「この人(ぼく)は、難しい言葉を使わずに自分の言葉で話しているから気に行ったし、話に説得力がある」
というお言葉をいただいた。
昨日の降誕祭のミサの帰り道にふと思った。あっ自分のわかりやすく伝える技術の原点は、ガラルダ先生の影響かもしれないと。
冒頭に記したように別にクリスチャンではないが、宣教師というより多くの人に布教活動をすることを使命としている人たち(こんな表現すると神父さまに失礼であるが、ごめんなさい)の話し方、伝え方に学ぶべきことって以外とあると感じた、クリスマスイブだった。
セーフティネットを享受する側のモラル
秋に勤務先のメガバンクグループの社会貢献ファンドからホームレス支援のNPOに助成金をご提供した。
メガバンクとホームレスという、新資本主義社会の中では対極にあるとも思われる組合せの接点を作りたいという意図もあった。
助成金を提供したホームレス支援NPOは、数年前に大学院の授業でご縁ができて以来のお付き合いである。
おつきあいといっても、時間がある時だけという程度でそれほど深いおつきあいではないが。
ご提供したのは、そのNPOの年間活動資金の1/10程度の金額である。
その後、その団体の事務局や代表から音沙汰が全くない。
別にお礼を期待しているわけではないが、不愉快になってメールを送ってみた。
レスはまだない。
そんな中で、こんなことを考えた。
他のホームレス支援に関わっている方やいろいろな福祉に関わっている方にはたいへん不愉快な発言かもしれない。
しかし、みんなで考えないといけないことかもしれないのであえて書いてみる。
ホームレス支援NPOでは、生活保護の申請のサポートなども日常業務として対応している。
確かに、社会のセーフティーネットとして生活保護などのしくみは大切である。
しかし、誤解を恐れずに言えば『生活保護に慣れてしまうと社会からの支援は当然だと思っていないだろうか』
それはいつしか、善意ある市民や企業からの支援も「私たちはそれをもらって当然と思っているのではないか」ということを問題提議したいのである。
筆者は、ユニバーサルデザインも専門の一つとしている関係で障害当事者ともつきあいがある。
視覚障害の親友から聞いた話である。一部の学校での話かもしれないが、一応聞いた話として書くことにする。
盲学校では、以前は「君たちは周りの人たちの支援を受けながら生活することが当然だ」というニュアンスのことを教育されたというのである。
つまり、ぶっちゃけて言えば「君たちは人に頼って生きて行きなさい」ということである。
こうした発想の障害当事者の方と社会的合意形成をするのはなかなかたいへんである。
こうした発想の障害当事者の人たちは、自分達に対して配慮することを当然であり、何ごとにも優先すべきだと考えている。それが場合によって、他の当事者たちの障害になることがあっても。
昔、職場の人権啓発研修の感想文の入選作に突っ込みを入れたことがある。
「障害者は保護されて当然であるが・・・」というくだりがあったからである。
さらに話は飛ぶ。山村再生の話である。山村再生の話でいつも感じることがある。
行政の委託事業、助成事業などに極度に依存するなということである。
民主党は、農業にも所得補償をしようとしている。
この3つの話に共通する話である。
セーフティーネットは大切である。しかし、セーフティーネットを使う側にもモラルが求められるのではないだろうか。
先日、自民党の石原議員が「自民党の政策の基本は自助である」と発言していた。
セーフティーネットも基本的な思想には自助の思想があるのではないだろうか。
自助が当初は難しくても、いつかは自分でなんとかするという気持ちと一時的に社会に支援してもらっていることに対する感謝を忘れてはいけないのではないだろうか。
最低限、社会の誰かから助けてもらったら「ありがとう」という気持ちを忘れてしまっては、ソーシャルビジネスのきれいごとも「偽善」ではないかと感じた次第である。
メガバンクとホームレスという、新資本主義社会の中では対極にあるとも思われる組合せの接点を作りたいという意図もあった。
助成金を提供したホームレス支援NPOは、数年前に大学院の授業でご縁ができて以来のお付き合いである。
おつきあいといっても、時間がある時だけという程度でそれほど深いおつきあいではないが。
ご提供したのは、そのNPOの年間活動資金の1/10程度の金額である。
その後、その団体の事務局や代表から音沙汰が全くない。
別にお礼を期待しているわけではないが、不愉快になってメールを送ってみた。
レスはまだない。
そんな中で、こんなことを考えた。
他のホームレス支援に関わっている方やいろいろな福祉に関わっている方にはたいへん不愉快な発言かもしれない。
しかし、みんなで考えないといけないことかもしれないのであえて書いてみる。
ホームレス支援NPOでは、生活保護の申請のサポートなども日常業務として対応している。
確かに、社会のセーフティーネットとして生活保護などのしくみは大切である。
しかし、誤解を恐れずに言えば『生活保護に慣れてしまうと社会からの支援は当然だと思っていないだろうか』
それはいつしか、善意ある市民や企業からの支援も「私たちはそれをもらって当然と思っているのではないか」ということを問題提議したいのである。
筆者は、ユニバーサルデザインも専門の一つとしている関係で障害当事者ともつきあいがある。
視覚障害の親友から聞いた話である。一部の学校での話かもしれないが、一応聞いた話として書くことにする。
盲学校では、以前は「君たちは周りの人たちの支援を受けながら生活することが当然だ」というニュアンスのことを教育されたというのである。
つまり、ぶっちゃけて言えば「君たちは人に頼って生きて行きなさい」ということである。
こうした発想の障害当事者の方と社会的合意形成をするのはなかなかたいへんである。
こうした発想の障害当事者の人たちは、自分達に対して配慮することを当然であり、何ごとにも優先すべきだと考えている。それが場合によって、他の当事者たちの障害になることがあっても。
昔、職場の人権啓発研修の感想文の入選作に突っ込みを入れたことがある。
「障害者は保護されて当然であるが・・・」というくだりがあったからである。
さらに話は飛ぶ。山村再生の話である。山村再生の話でいつも感じることがある。
行政の委託事業、助成事業などに極度に依存するなということである。
民主党は、農業にも所得補償をしようとしている。
この3つの話に共通する話である。
セーフティーネットは大切である。しかし、セーフティーネットを使う側にもモラルが求められるのではないだろうか。
先日、自民党の石原議員が「自民党の政策の基本は自助である」と発言していた。
セーフティーネットも基本的な思想には自助の思想があるのではないだろうか。
自助が当初は難しくても、いつかは自分でなんとかするという気持ちと一時的に社会に支援してもらっていることに対する感謝を忘れてはいけないのではないだろうか。
最低限、社会の誰かから助けてもらったら「ありがとう」という気持ちを忘れてしまっては、ソーシャルビジネスのきれいごとも「偽善」ではないかと感じた次第である。
たかがお茶くみ、されどお茶の入れ方
最近、仕事で静岡市の方とご縁がある。
以前に浜松に勤務していた時にも感じていたが、静岡ではおいしいお茶をごちそうになれる。
それは、お金を払ってお茶を飲みに行くという時ではなく、ふだんの生活の中でおいしいお茶に接する機会が多い。
こないだ、静岡市の職員の女性と話していたら、静岡市役所に入庁するとお茶の入れ方は徹底的に教えられるそうである。
さすが、茶処静岡である。
これは、地域のアイデンティティを大切にしている静岡市の一つのこだわりだと感じた。
ちなみに、一時期静岡市の施設では、「緊急雇用対策」でお茶を入れて下さる方を雇用し、公共施設でお茶のサービスをしていた。なかなか、地域のアイデンティティがありかつお茶の消費にも貢献できるよい企画だと感じた。
もちろん、静岡でもお茶だけでなく「生シラス」「桜エビ」「みかん」などいろいろ特産品はある。
だからといって、市役所で「生シラス」のサービスというわけにはいかない。
しかし、地域の文化としてのお茶があり、ビジネスシーンでそれを情報発信できるのであれば積極的に地域のアイデンティティを主張していく方法は、他地域でも検討に値するのではないかと思う。
先々月に秋田でシンポジウムを担当した際に、前泊した旅館の方に今夜の料理で地元の食材はどれですかと伺ったら答えられなかった。それではだめだと翌日のシンポジウムで言ってしまった。
地域の文化、食材などに誇りを持つこと、地域再生の第一歩ではないかと思う。
以前に浜松に勤務していた時にも感じていたが、静岡ではおいしいお茶をごちそうになれる。
それは、お金を払ってお茶を飲みに行くという時ではなく、ふだんの生活の中でおいしいお茶に接する機会が多い。
こないだ、静岡市の職員の女性と話していたら、静岡市役所に入庁するとお茶の入れ方は徹底的に教えられるそうである。
さすが、茶処静岡である。
これは、地域のアイデンティティを大切にしている静岡市の一つのこだわりだと感じた。
ちなみに、一時期静岡市の施設では、「緊急雇用対策」でお茶を入れて下さる方を雇用し、公共施設でお茶のサービスをしていた。なかなか、地域のアイデンティティがありかつお茶の消費にも貢献できるよい企画だと感じた。
もちろん、静岡でもお茶だけでなく「生シラス」「桜エビ」「みかん」などいろいろ特産品はある。
だからといって、市役所で「生シラス」のサービスというわけにはいかない。
しかし、地域の文化としてのお茶があり、ビジネスシーンでそれを情報発信できるのであれば積極的に地域のアイデンティティを主張していく方法は、他地域でも検討に値するのではないかと思う。
先々月に秋田でシンポジウムを担当した際に、前泊した旅館の方に今夜の料理で地元の食材はどれですかと伺ったら答えられなかった。それではだめだと翌日のシンポジウムで言ってしまった。
地域の文化、食材などに誇りを持つこと、地域再生の第一歩ではないかと思う。
事業仕分けに異議〜「べき論」ではセーフティーネットは守れない
事業仕分けに関する異議の第三段である。
「民間でやるべきこと」というコメントが廃止判定の中に目立つ。
しかし、「べき論」では世の中動いていない。
仕分けを全面否定するつもりはない。しかし、「べき論」を唱えても市場原理の中で動いている民間の活動は、
短期的な採算性でしか動かない。
成果が発現するのに中長期的な時間を要する取組や採算性の議論ではなく私たちのセーフティーネットに関わる取組は、短期的成果を議論する仕分けの対象とすること自体がナンセンスである。
短期的な成果や採算性だけで活動し、目先の利益だけを追いかけて経済が破たんした事例は歴史をみればたくさんある。近年のリーマンショックしかり、日本のバブル経済もしかりである。
短期的な利益や採算性を追いかけて破たんに至った時に再生に要する時間は膨大なものがある。短期的なV字回復ができるケースばかりとは限らない。
では、先人の犯した失敗をフォローするための活動や取組、施策について短期的な成果や採算性が見込めないから、「やっても無駄だ」と言っているのが事業仕分けである。
それは、すなわち放棄ということだ。「放棄」したままで問題が生じないのであればそれでよい。
しかし、本質的には我々国民のセーフティネットを危機に陥らせているのではないだろうか。
民間でやるべきこととは、何であろうか。
官から民へとここ10年叫ばれてきた。
PFIなどに代表される活動は、見直しの時期に来ている。
民間でやるべきことは、「官でできないことの民間への押しつけ」ではない。
現状で採算性の悪い取組は、官と民が知恵を出し合って採算性を確保できるようにしてから
「民間に移行」することが必要ではないのか。
つまり「民間でもできる方法の提示」が事業仕分けには必要だと思う。
その点、仕分け人は無責任である。
仕分け人は筆者に言わせれば「ただのクレーマー」に過ぎない。
民間の視点からみれば成果が望めないなどと言うなら、成果が望める方法を示すべきであろう。
廃止にすれば、それで終わりではあまりにも無責任である。
無責任な仕分け人は、即刻退場すべきだと思う。
「民間でやるべきこと」というコメントが廃止判定の中に目立つ。
しかし、「べき論」では世の中動いていない。
仕分けを全面否定するつもりはない。しかし、「べき論」を唱えても市場原理の中で動いている民間の活動は、
短期的な採算性でしか動かない。
成果が発現するのに中長期的な時間を要する取組や採算性の議論ではなく私たちのセーフティーネットに関わる取組は、短期的成果を議論する仕分けの対象とすること自体がナンセンスである。
短期的な成果や採算性だけで活動し、目先の利益だけを追いかけて経済が破たんした事例は歴史をみればたくさんある。近年のリーマンショックしかり、日本のバブル経済もしかりである。
短期的な利益や採算性を追いかけて破たんに至った時に再生に要する時間は膨大なものがある。短期的なV字回復ができるケースばかりとは限らない。
では、先人の犯した失敗をフォローするための活動や取組、施策について短期的な成果や採算性が見込めないから、「やっても無駄だ」と言っているのが事業仕分けである。
それは、すなわち放棄ということだ。「放棄」したままで問題が生じないのであればそれでよい。
しかし、本質的には我々国民のセーフティネットを危機に陥らせているのではないだろうか。
民間でやるべきこととは、何であろうか。
官から民へとここ10年叫ばれてきた。
PFIなどに代表される活動は、見直しの時期に来ている。
民間でやるべきことは、「官でできないことの民間への押しつけ」ではない。
現状で採算性の悪い取組は、官と民が知恵を出し合って採算性を確保できるようにしてから
「民間に移行」することが必要ではないのか。
つまり「民間でもできる方法の提示」が事業仕分けには必要だと思う。
その点、仕分け人は無責任である。
仕分け人は筆者に言わせれば「ただのクレーマー」に過ぎない。
民間の視点からみれば成果が望めないなどと言うなら、成果が望める方法を示すべきであろう。
廃止にすれば、それで終わりではあまりにも無責任である。
無責任な仕分け人は、即刻退場すべきだと思う。




